第九章

その後 目眩と心神耗弱の日々



 あれからどれくらい経ったろう。何年?何ヵ月?何日?いや、ほんの数時間しか経っていないような気がする。私の時間は止まってしまった。
 私は未だに心身ともに立ち直ることが出来ないでいる

 体も、毎日タンコン社に通っていた時よりはマシだが、それでも時々、目がとんでもなく痛んだり、悲しくもないのに急に涙が止まらなくなったりする。悪い作業環境でひねもすワープロと相対していたりしたのと、様々な嫌がらせによるストレスで、よほど視神経がやられてしまっているのか、体全体の神経、精神的にまいってしまっているのか。どう考えても、ただの“気のせい”でこんなには痛みを感じないだろう。何もしなくてもチクチク、ズキズキ、チクチク、ズキズキ、チクチク、ズキズキ、チクチク、ズキズキ…。
 そうかと思えば、ふと平衡感覚を失ったように、不思議な浮遊感、軽い目眩を感じることがある。何もしていないのに、息苦しくなることもある。つまらないことで妙に感情が高ぶり、涙ぐんだりする。集中力が続かない。考えがまとまらない。何をするのも億劫だ。十年余りも精神的に痛めつけられ続けた上、こんな酷い仕打ちに遭ったためか?こういうのをPTSDというのだろうか?だとしたらもう一生直らないのかも知れない。真面目、正直に生き、人を信じていることのバカバカしさをこれほどまでに思い知らされた、心の傷が癒えることはもうないだろう。ここまで来れば、もはや立派に“傷害事件”だ。ただ、それが目に見える傷、ケガでないために、他人からは中々それと理解してもらえない。それが苦しみ、哀しみを倍加する。

 体も心も、回復が難しいほどダメージを受けてしまった。そのことが分かっていても、どうしようもない。何しろ通院しようにも収入もないのである。いつ底をつくか分からない、わずかな蓄えで今日を凌いでいる身では、ただただ我慢しているしかない。もっと正直に言えば、我慢している気力さえないのだ。正に“生ける屍”である。「死んじゃったら楽だろうな」なんて思うのはもはや毎日のことで、「プールに行って、うつぶせに浮いていたら気持ちいいかな」とか「ビルから飛び降りたらスッキリするかな」なんてことまで考えたりする。また違う時には、元気のいいヒットソングがテレビやラジオから流れていると、「へえ、テンポのいい曲だな」と普通に思っているだけのはずなのに目から涙が流れ始めたりする。
 全身がだるく、自らの置かれている状況に立ち向かわなければといくら思っても気力が続かず、「やはりプールへ行って、ずっとうつぶせに浮いていたい」などと考えてしまう。

 もしかしたら、もっと大きな病院を回れば、「これはタンコン社での環境や強いストレスによる症状」と、きちんと診断してくれる医者にめぐり合えたかも知れない。今からでも探せばいいのかも知れない。ドライアイは症状の1つ、つまり結果であって原因ではないとわかってくれる医者がいるかも知れない。視神経炎など、きちんと病状を認めてくれる人もいるだろう。そうしたら、労働基準監督署に改めてタンコン社の凶行を訴え、労災認定の申請が出来るかも知れない。効果的な治療方法もあるのかも知れない。しかし、その医者に行くにも“先だつもの”が必要なのだ。
 そもそも、かかっていた医者だって「まだ治療中だ」と言っているのに、無理矢理仮病扱いされ、脅迫によって退職させられ、そのため保険証も取り上げられ、治療費に当てる収入もなくなってしまったのである。こんな酷いことってあっていいのだろうか?

 こんな状態では当然、再就職も難しいだろう。ちょっと目を使う仕事をしているだけで痛みが酷くなってきて、開けていられなくなってしまうようでは、出来る仕事など思いつかない。ましてや、通院歴のある男など誰も雇いたがらないだろう。そこまで一人の人間を追い込み、傷つけた加害者たちは今ものうのうとタンコン社に居座り、我が物顔で過ごしているのだ。
 「もう一生、このままかも知れない」。そんな喪失感、焦燥感が更に精神状態を悪くする。私は人として、タンコン社に殺されたのだ。チューインガムのように、都合のいい時には無神経に噛まれ続けた挙げ句、故障したら人間としてさえ否定され、吐き捨てられたのだ。「いつかは分かってもらえるだろうか」などと甘いことを思いながら、10数年も耐え続けた結果は、痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられて痛めつけられてその挙げ句、心身ともにボロボロにされた上に放り出されたのだ。

 「マスコミなんかで働いてれば、多かれ少なかれ目の調子が悪くなるなんてことはあるよ。職業病だから仕方がない。俺だって我慢してやってるさ」などと言う人もいるかもしれない。これが人には理解され難い病気、症状の辛いところである。本人は死ぬほど辛くても、「どう考えても他の人も我慢しているレベルの痛みとは思えない」と思っても、外科的な症状と違って、理解のない人にはどこまで言っても理解してもらえないのだ。
 しかし、“職業病”なら本人が悩むほどに酷くなればやはり、労災に認定されるべきではないのか?そうならないように、経営者は業務環境改善に努めるべきなのではないのか?私の場合、タンコン社の無責任経営陣が、人を貶めてまで自分の職責を果たさず、無責任を押し通そうとしたために、その国への労災申請さえも出来なくなってしまったのである。どこまで認められるとかられないとか以前に、人として人生台無しにされた上、この痛み苦しみと一生付き合っていかざるを得ないようにされてしまったのだ。

 私は何年もの間、職場環境改善や配置転換などの対応を求めていた。それは会社との公式な面談で、犬山にも直接に話していたことなのだ。配置転換自体も十分可能だったはずである。ところが犬山はそうした苦情を受けていたことを責任転嫁するため、「ちゃんと話の内容は記録しておく」という建て前だった面談内容を隠すために記録から抹消、隠蔽し、会社、いや自分に都合の悪いことについてはあくまでとぼける作戦に出た。そして、都合の悪い訴えと一緒に、私を抹殺したのだ。言わば、被害者に大声を出されたひき逃げ犯が戻ってきて、口封じのためにもう1度ひき逃げしていったようなものである。もはやこれは立派に傷害事件である。親告罪ではなく、刑事事件として捜査が入ってもいいのではないか?そういう法律がないことの方がおかしいと思う。

 毎日毎日、やりきれない思いに悩まされ続けている。考えれば考えるほど、私が会社を追われなければならなかった理由などないのだ。虚偽、捏造、ウソ、ゴマカシを行っていたのは、タンコン社、犬山たち管理職たちなのである。彼らが取るべき責任を取らず、転嫁するために“人柱”にされたのである。まじめにまじめに働くことを考えてきても報われず、挙げ句にあろうことかウソツキにウソツキ呼ばわりされて退職させられるという屈辱。そんな組織的暴力に対処するためにあるはずの労働組合が、時の委員長によって全く機能しないという不条理。自分が正しいと確信していながら、話のスジとは関係ない、経済的な問題で法にも訴えられなかったというジレンマ。そんなものに日々悩まされ続けているのだ。あの日から今日まで、1日たりとてこの悔しさを思い起こさない日はない。気が狂いそうだ。いや、そのうちに狂ってしまうんだろう。その後のことは分からない…。

 ある日、谷川洵子さんが夢枕に立った。谷川さんというのは、タンコン社で大先輩社員だった人だ。きちんとした人で、まわりの人間にもきっちりものを言うので、ちょっとうるさ型の人だったが、逆にまだ小僧だった頃の私のことは「きちんとしている」と認めてくれて、良くしてくれた。でも、十年ほど前に亡くなってしまった。その谷川さんが夢枕に立ったのだ。こんなことはもちろん今までなかった。
 生前にはほとんど見た事もなかったような、黒いスーツに白い手袋という姿の谷川さんが、たった一言、「わたしはあなたの方を信じるよ」と言って消えた。目が覚めたら、涙が出てきた。



 最近、タンコン社の名前が報道されることがあった。やはり経済や株などの分野を得意とする出版社の、東方見聞社から訴えられたという。

 内容はこうだ。東方見聞社は、昔から季刊の投資情報誌を出している。これと同種の情報誌を最近、タンコン社が創刊した。創刊したのは良いが、その記事に東方見聞社の情報誌の内容を、約百ヶ所も無断で“拝借”していた。「これは著作権の侵害」だということで、東方見聞社はこのタンコン社の情報誌の出版差し止め、回収を求めて提訴したのだ。
 これに対し、タンコン社は「記事はちゃんと各企業に取材し、当社のスタッフが執筆したもので問題はない」と反論した、ということだった。

 ところがである。この3ヵ月後、タンコン社は主張を一転。「東方見聞社の情報誌から記事、データを無断転用したことを認めて東方見聞社に謝罪する」と発表したのである。それを受けて東方見聞社は、提訴を取り下げた。回収も無しでいいということになったという。

 相変わらずだなあ。よそのネタをいただいて、そうとは知らない読者に売ってしまう。あっちもこっちもチョロまかし。「名簿ビジネス」と同じである。中学生の宿題のレポートでもあるまいし、呆れたモラルの低さ。しかも、指摘されても都合の悪いことは認めない。「独自に取材しております」という言い方も「名簿」と同じだ。

 しかも、季刊誌についての話である。つまり、よその出版社の、すでに出ている雑誌の情報をいただいたということは、「約3ヶ月前の情報」をいただいているわけだ。今の時代に、「3ヶ月前の投資情報」である。そんなものだと知ったら、果たして買ってくれる人がいるだろうか?
 それに、タンコン社はほんの少し前、別な出版社の雑誌記事のレイアウトが、「自分のところの投資情報誌のレイアウトに似ていた」と言って、誌上でその雑誌を批判する“大特集記事”を展開した前歴がある。あまりにエキセントリックな反応に、「何もそれほどのものでも」と同業者たちにドン引きされたのであるが、その一方で己たちはこれなのだ。もちろん、真面目にやっている人たちの方が人数的には多いのだが、何故かこういうことをスルーしてしまう感覚の人間が管理職をやっていたりもする。(そう言えば、名簿にもダミーデータを入れるほど、自分たちの商品の“著作権”は守ろうとするくせに、従業員各々に与えているパソコンのソフトについても、そのソフトが業務上必要な人数分購入しているのを見たことがなかった

 それでも今回は、最後は認めて謝っただけマシだ。これには、東方見聞社にバレただけではなく、購入した読者からも多々指摘されて、逃げ切れなくなったという事情もあったようだ。情報の“拝借”だけではなく、間違いも随分と指摘されたらしい。
 何故、そんな事をしたのか。しなければならなかったのか。一言で言えば、「人を育てていないから」だろう。タンコン社も投資情報などを昔から扱っている会社と世間では思われているが、実はそのノウハウはあまり受け継がれていないのだ。今でこそ「株ブーム」がどうとか、「個人投資家」がこうとか言っているが、ほんの数年前まで、“投資情報”などと言う事業は、不採算部門だった。それでタンコン社はこうした部署を縮小し、ついには専門部隊としては廃止してしまったのだ。当時のメンバーは、定年退職したり、独立して投資顧問会社を作ったりで、会社を去ってしまった。その後、タンコン社としてはその分析ノウハウを受け継ぐ若い人間を育ててこなかったのである。ところがそこへ昨今のブーム。急いで、今いる人間でチームを作った。現場のモラルがどうこうというよりは、これもやはり経営責任だろう。
 この盗用騒ぎにしても、一スタッフの能力やモラルが低く、勝手に起こした問題なら当人の責任だが、こういう仕事の仕方を上から指示されて、あるいは強要されていたなら大問題だね。もちろん、編集長がいるわけだからいずれにしても「知りませんでした」では済まないわけだが、それが業務命令だったなら業界から袋叩きに遭ってもおかしくない。出版業界では結構、同業他社に転職するなんて人もいるが、こういうことが度々あるようではタンコン社にいましたというだけで道が閉ざされるようになるかもね。

 それにモノが分かっている人なら、認めて東方見聞社に謝るまでに3ヶ月もかかっていることも不思議に思うだろう。訴状を見て、現場の担当者なりライターなりに確認すればすぐ分かるはずのことである(訴えられる前にそもそも何らかの指摘もあったはずであるし)。それが3ヶ月。つまり、季刊誌として、次の号が出る直前まで謝らなかったのである。「回収はしなくて良いということになった」?当たり前だ。その号の売れる分は売れてしまっている。今更回収しようもないし、しても意味がない。そうなるまで、タンコン社は引き伸ばしを図ったのだ。
 あまつさえ、その謝罪の言い草がこうである。「これからも良きライバルとして、切磋琢磨していきたい」。盗作して謝る側の立場で言うセリフではないよなぁ。

 よくこんなことで、東方見聞社側が堪忍したなと思うが、そこらへんも色々あったのだろう。では、東方見聞社がこれで本当に溜飲を下げたのかというと、やはりそうでもないようだ。
 一部では、「これではさすがにタンコン社も恥ずかしくて、この情報誌の次の号は出せないのではないか」などという人もいたようだが、どっこい、平気で出した。東方見聞社側も当然出した。同じ日に新聞広告を出していたのを見て苦笑した。タンコン社は相変わらずマンガチックなレイアウトなどを自慢していた。対して東方見聞社の広告には、「全社にきちんと取材しているのは当社だけです」とあった。キツイなあ。やはりまだ怒っていたんだね。でも、どうせ同じことを宣伝するなら、もっときちんと目立つように書いたほうが良かったと思うな。あんな細い字でチクリとやっても、感じない人たちは感じないからね。残念ながら、あの日の新聞広告については、広告的にはタンコン社のほうが良く出来ていたと思うな。

 もし、どこかの会社が、自分のところの経営数字をわざと間違えて発表などしたら大騒ぎ即犯罪である。ところがタンコン社は、東方見聞社に「大人の解決」をしてもらっただけで、それを買ってしまった人たちには返金さえしない。これを機に、メディアがこんな情報の流し方をしたら取り締まれるような法律を作っておくべきじゃないのか。

 もちろん、それ以前にマスメディア、特に活字媒体のとして、他社媒体の情報を、出典も明らかにせず無断で引用、借用するなんてことは業界の仁義に反しているし、一番“恥ずかしいこと”のはずなのだが、あの経営者たちではそんなモラルなど社員、スタッフに説くことは出来ないだろう。

 しかし、全く“後遺症”がないわけでもなさそうだ。同じような本が書店の店頭に並んでいる中、タンコン社のものだけが平積みの山が少なかったりしている。それはそうだ。作っている方は盗用だろうがなんだろうが適当に作って、「ハイ、これおたくの店に置いてください」と言って置いてもらい、売れればよし、売れなくても回収して終り。記事上何か問題があっても、せいぜい誌上に「訂正してお詫びいたします」なんて小さく載せて、「ハイ、責任は果たしました」なんて言ってれば済むかも知れないが、書店さんはそうもいかない。買ったお客さんから直接に文句をいわれる可能性がある。「タンコン社の本を信じて損した」という人でも、タンコン社にはわざわざ時間と交通費をかけて直接怒鳴り込んでくることは少なく、電話で文句を言う程度だろうが、その人の生活圏にある書店さんには、「こんなもん売りやがって!」と直接怒鳴り込んでくる可能性もある。今日日、ちょっとエキセントリックな人がいたりすれば、店頭で店員さんが刺されちゃったりしかねないのだ。書店さんにしてみれば、売ることで“身の危険”があるような出版社の本なんか、自分の店に置きたくはないのである。
 そこまで極端なことにならないまでも、書店さんにしてみれば、いくら流通の仕組みとして売れ残れば返本できるとは言っても、問題を起こすような本は当然仕入れたくはない。返本すれば一見、経費はかからないように見えるが、その為の手間ひまは結局、書店の負担である。そんな本など積極的に置きたくはないだろう。


 タンコン社にだって、常識的な人はいる。というより、そういう人の方が多いはずだ。それぞれ自分の仕事にプライドを持って当っているだろう。しかし何故か上の方で、経営者として仕切っているのは、自分が責任を取らずに済ませるためには手段を選ばない連中。だから、こんな事が起きる。


 こんなに色々ばらしてしまっては、まだタンコン社にいる、大多数の真面目に会社を信じて働いている人たちの仕事までやりにくくなり、私の方が恨まれるかも知れないね。しかし、我々の利益を代表し、従業員を守るべき立場だった組合の委員長までがその責務を果たしてくれず、ほとんどグルだったのだから仕方がない。自らの責任を果たしていないことを咎められたことに逆切れし、結託して口裏合わせてウソをつき、私をウソツキに仕立て上げて追い出しにかかった一部の管理職と、その不当労働行為、不当解雇に抗議するべき立場でありながら自分の個人的な好き嫌いで被害者を守らなかった組合委員長によって、私にとって、タンコン社の看板は経営、組合とも“仇”になってしまったのだ。

 もし、改めて裁判にでもなれば、私はタンコン社の問題点を、ここには書いていないことも含めて全て話すだけだ。

 だからと言って犬山たちと一緒になって私を逆恨みしているようでは、結局、タンコン社に明日はないだろうな。よく考えてみて欲しい。自分たちが自分たちのこれからの仕事と生活を守るために、本当に戦わなければならない相手は誰かということをだ。
 世は猫も杓子も“成果主義”がどうのと騒いでいるが、真面目に勤めて、きちんと実績を上げていても、邪な人間が上にいては、必ずしも評価には結びつかないのだ。一生懸命にやって、やりすぎてやがて故障したら放置され、都合が悪いとなれば労災認定どころか、濡れ衣を着せて、あわよくば退職金まで強引に値切って放り出そうとするような会社のために、あなたは本当に一生懸命に働けるだろうか?もしかしたら、次に狙われるのはあなたかも知れない。何しろ、浜崎委員長は、いい加減な経営陣に文句を言ったら逆にあることないことどころか、“ないことないこと”でっち上げられ、それを理由に解雇だなどと暴論を振り回されれば、泣き寝入りするしかないという“前例”を作ってしまった。組合が、委員長の個人的な感情によって組合員を差別することもあるという“前例”を作ってしまったのだ。こういう、自分の居場所を確保するために人を貶め、足を引っ張ろうと一生懸命に画策するような人間は、ある意味“ビョーキ”である。タンコン社の“ビョーキ”な人たちは、私という“おもちゃ”を使いきってしまった。そしてそういう人たちは、次の“おもちゃ”を、被害者を求めて暗躍し始めるだろう。周りを良く見てご覧よ。すでにその徴候はないかい?
 今やあなたたちの会社は、“裏切る会社”なのだ。そういう会社になってしまったのだ。十数年もに渡る職場についての苦情をそのまま放置して、心身ともに不健康にさせ、その責任の所在をはっきりさせられそうになったら、今度は散々我慢させてきた被害者本人の症状を、一方的に仮病扱いしてでも責任逃れをする。自分が取るべき責任を取らずに済ませるためには、従業員に濡れ衣を着せてでも責任逃れをする。そんな経営陣の下で、流れにまかせていて本当にいいのか?安心して、「努力すれば報われるはず」なんて思いながら、いい仕事ができるのか?「自分はそんな標的、被害者になるようなドジは踏まないさ」と、本当に言い切れるか?自分が暴れて人にケガをさせておいて、「酔っていたから覚えていない」などと言い訳した上、覚えていないけど「お前が暴れたから止めようとしただけで不可抗力だ」などととんでもないすり替え、言い逃れをする上司や、そういうことにしておいた方が自分たちも無責任を決め込めるからと無理矢理「そうだったこと」にしてしまうような経営陣の下で、安心して働けるのか?あなたたち自身のためにも、犬山たちのような、無責任を通すためには手段を選ばない経営陣を何とかするべきなのではないのか?
 人間、自分が調子のいい時には、中々調子が悪くなった時のことなど想像できないものである。私もそうだった。しかし、それではいけないんだよ。私を無責任で狡猾な経営陣と一緒になって私を悪者にして納得してしまった方が楽かもしれないが、それでは今後あなたたち自身にも危険が迫ってくる可能性を排除できないんだよ。
 いつまでも経営不振だからといって、そのつけをこんな形でのリストラで従業員に押し付けるようになってしまった会社で、本当に一生懸命になんか働けるか?一生懸命にやってもいつ裏切られるか分からないような会社のために、病気になってでも頑張ろうと思えるか?そのくせ“グループ”の経営者たちは、何かの時に「責任を取って辞めます」と言ってタンコン社を退いても、子会社の社長は続けてたりするのに、信じられるのか?
 もう1度言う。自分たちの職場を守るために、自分の生活を守るために、自分のキャリアを守るために、本当に戦うべき相手は誰なのか、タンコン社が社会的信頼を回復するためには何をしなければならないのか、よく考えてみて欲しい。

 タンコン社には、“傷病長期休暇”だの“社内労災休暇”なんかがあるからと、何となく社員に優しい良い会社のように誤解し、ただただ頑張って仕事して、万が一何かあっても安心などと思っていると、エライ目に遭わされることもあるということが、浜崎委員長の下で既成事実化してしまった。何年も前から、医者の診断書まで出して配置転換を願い出ていたのに、その診断書自体を紛失していたなどという無責任なことをしておきながら、それで症状が更に悪化した人間をこともあろうに仮病扱いしてまで責任逃れをするような経営者だ。多分、今後、外部からの信頼もなくしていくだろうこのままではいつまでもタンコン社の看板があるかは分からないよ。改善がないならね。
 こんな暴力が罷り通るなら、いくら優しそうな労働協約があったって、分かってもらいにくい病気だったり、医者がいろんな意味で頼りにならなかったりすれば、みんな難癖つけられて会社を追われるはめになることになる。それでいいのか?自分たちの責任を回避するためなら手段を選ばない、狭い会社の中でさえ自分の地位を守るためにはこんな悪質な言いがかりを社員につけることまでするような経営者の下で一生懸命になんて働けるのか?

 内部事情がこんな風で、こんな経営者たちが仕切っている会社だと知れれば、「あんな会社の本なんて」と、買ってくれる人も減るだろう。積極的に扱ってくれる取り次ぎも、置いてくれる書店も減るだろう。広告を出してくれる広告主も減るだろう。その結末は言うまでもないよね。

 わずか数年の間に、次々と退職者が出るのは何故だろうとは思っていたが、この会社の裏では私も知らない様々な“悪意”が渦巻いていたのかも知れない。それでも、差し当たりの給料を得るために、見て見ぬふりで、自分が次の標的にされないように黙って言われたことをやっているしかないというような働き方で、本当にいいのか?「新規開発の予算がないから、今まで出したもののラベルを張り替えて違うものに見せかけて出しちゃえ」だとか、「よその商品でも無断で利用させていただきます」なんて出版社で、世間から認めてもらえると思うのか?
 仮に、あなたたちがそれで我慢したとしても、いずれ外部の人たちにその“歪み”を指摘されるようになってしまうこともないとは言い切れないだろう。隠しても分かる人には分かってしまうだろう。いくらあなたたちが頑張ったところで、犬山たちのような経営者の下では、タンコン社はいよいよ本当に傾いてしまうかも知れないよ。



 近くの小学校の横を通ったら、こんな標語が書いてある看板を見つけた。「悪いこと、ダメだと言える、その勇気」。「その勇気を持っていると、大人になってから余計な苦労をするんだよ」という皮肉ではまさかないよな。
 そう言えば、白河や足立にも子供がいておかしくないよな。犬山など、孫がいても不思議ではない年のはずだ。自分の子供たちに、自分のしたことを恥ずかしげもなく話せるのかな。むしろ、「おじいちゃんは、気に入らない社員を脅して追い出してやったんだよ」「へぇ、おじいちゃんて強いんだね」なんて自慢話でもしているんだろうか。もしそうなら、いくら取締役なんかになっても、“人”として救いようがない
 私が孫なら、「おじいちゃん、自分のわがままで他の人に悪いことしちゃいけないって、先生が言ってたよ」と諭してあげたいね。

 オトナがこれなのだから、コドモにばかり「イジメはなくしましょう」だとか言っても説得力はない。それどころか、会社のトップにまで「困っているんです」と告げても、かえって都合が悪いからと排除されてしまうようでは、イジメに悩んでいる子に「きっと誰かが何とかしてくれるから相談してみましょう」なんて言ったって、ウソにしか聞こえないだろう。それどころか「ああ、オトナはやっぱりウソつきなんだ」と思われてしまうかもな。

 そう言えば、タンコン社は最近、有志の企業から寄付を募って、副教材的な本を教育機関に無償で配布するなんて事も始めた。要するに、版元として自前でコストをかけて出版し売上げによって回収するよりも、その方が“儲け”が見込みやすいし、あわよくば会社のイメージアップも期待できるというわけだ。私が何年も前に出した案だが、社内のことなので無断転用とまでは言わない。もちろん、他の誰かがまた新たに提案したのかも知れないからそれはいい。いいけれども少なくとも、この会社がそれが誰の発言かによって差別的な取り上げ方をするという1つの例だな。
 もし、私がPTAの立場で、タンコン社が犬山や白河のような人間たちが仕切っている会社だと知っていたら、「ただでもあなたのところの本など要りません。内容はともかくとしても、自分の地位を守るために人を貶めるような方々の会社の本など、教育上好ましくないですから」とボイコットするだろうな。いくら「教育に貢献しています」みたいなフリをしていても、結局それで儲かるのは、最終的にほくそ笑むのは犬山みたいなやつらなわけだからね。



 もうずい分長い間、沼の底に沈んでいるような気分で過ごしている。今でも毎日、あの犬山や白河の白々しく、無責任かつ傲慢な態度を思い出してしまっては吐き気を催している。何も楽しくない。私の心は死んでしまった。「いっそ本当に死んじゃおうかな?」そんなことを考える。
 しかしだ。責任者でありながら、人が本当に毎日苦しんで、それを何年にも渡って訴え続けられても知らん顔を通し、挙げ句の果てに取って当然の責任さえ認めたくないからと、被害者を陥れるような連中は、例え私が死んでも、「死人に口なし。これ幸い」と喜ぶだけだろう。そう思った時、考えが変った。「どうせ死ぬ気ならその前に、事実はこうだったと話してしまってもいいんじゃないか?」と。
 こんな暴力によって、被害者が1人で自らの命を絶つことになるなどというのは、あまりにも理不尽だ。といって、ズルズルと生きていても、このままではやがて私は、いよいよ精神に破綻をきたしてしまうだろう。そうなれば行きずりの、全く無関係な人に迷惑をかけることさえあり得ないとは言い切れない。自ら命を絶ったり、無関係な人を傷つけたりするくらいなら、タンコン社で何が起こったか、自分が何をされたかきちんと話をしてしまった方が、よほど正しい道ではなかろうか。

 タンコン社には、「余計なことを人にしゃべるな」「会社に不利なことを世間に公表するな」と退社するにあたってまで脅され「脅迫で退職させられたことについて今後誰にも相談しない」と一筆書かされまでしたが、そんなものに正当性があるのだろうか?(その上、「今後、元同僚の誰とも一切連絡をとるな」などとまで言うのだから、却ってタンコウ社がいかに非人道的な仕打ちに出たのかお分り頂けるだろう)鬱状態の上に謂れのないことで詰問され、心神耗弱状態でさらに脅迫によって、本人の意志に反して書かされたものである。それなのに、脅されたこちらがおとなしくそれを守らなければならないのだろうか?(脅迫した上に「人に相談するな」と更に脅すというのもとんでもない話だが、従業員を濡れ衣・難癖で追い出しておいてその相手に自分たちに都合の悪いことは世間にバラすなとはいけずうずうしいにもほどがある。厚顔無恥とは正にこのことだ!)こんな暴力がまかり通るなら、日本には正義も何もあったものじゃないじゃないか!
 もしあなたが、隣の家から泥棒が出てくるところに出くわしたとする。その泥棒が寄って来て、ナイフをあなたに突きつけて、「誰かにしゃべったら殺すぞ」と脅したとする。身の危険を感じたあなたが、仕方なくその場で頷いたとしても、それは何ら責められるようなことではない。では、泥棒が去った後、あなたが泥棒の意に反して警察に電話したら、あなたは責められなければならないだろうか?その泥棒が捕まって、「お前は誰にもしゃべらないと約束したのにしゃべった。口約束とはいえ契約だから、その契約に違反したお前を契約違反で訴えてやる」などと言ったらどうだろうか?泥棒の訴えが認められるようでは、いったい日本の“法の正義”など誰も信じなくなってしまうだろう。それ以前に、泥棒がそんなことを主張した時点で、物笑いの種になるだけではないだろうか?
 むしろ、タンコン社に訴えられでもすれば、かえって望むところかも知れない。何故なら、法廷では“真実”を述べることになっているはずだからだ。つまり、彼らがそこでもウソで人を貶めようとするなら、その時点で犯罪になる理屈である。例え、すべてが私の思っている通りにならなくても、少なくとも私は真実を淡々と述べるだけだ。落ち着いて整理してみたら出てきた、数々の証拠も全部出して、いかに犬山たちがウソつきかを、ここに書いていないことまでできる限り話す。「言論の自由」を守るべきマスメディアの一員であるはずの出版社の“端くれ”が、暴力により人ひとりの人生を台無しにした上、脅迫によって真実を語ることさえ封じようとするなど、許されて良いわけがない
 ただ真面目にやっていれば、最低限そのことだけは分かってもらえているだろうと思ってやってきた人間の方が身も心も破壊され、挙げ句の果てに生活まで破壊され、その一方で人を陥れることで自らの立場を守ろうとするような経営者がしてやったりと、のうのうと暮らしていける世の中の方が間違っているだろう。有名な経営者が雑誌のインタビュー記事で言っていた。「卑怯な経営者は去れ!」ってさ。では、「卑怯な経営者ばかりの会社」はどうすればいいのだろう?“社会的信用”を失って倒産かな?その時、犬山たちは社員たちに対して、どう責任を取るのだろうか?
 自分たちの“責任取りたくない病”のために、彼らは会社の名前を使って汚い策を弄し、会社の社会的信用を落としてでも自分の落ち度を認めず、一人の人間の人生を台無しにし、事実上“殺した”のだ。その結果、彼らはタンコン社という看板そのものを、“社会的制裁”を受ける危機に陥れたのである。それにこれまた無責任な組合委員長が荷担し、被害者である組合員を孤立させることに協力し、抹殺したのだ。
 保険会社が契約に反して保険金を払わなければ業務停止命令を受けるのに、タンコン社が会社としての法的義務を果たさず、労働協約に反しても何ら報いを受けない方がおかしい。

 でも、いざ改めて私がタンコン社と戦うことになれば、かつては「会社の方がおかしい」と言ってくれていた当時の同僚たちも、手のひらを返したように証言を翻すかも知れない。辞めた人間の味方をするより、とりあえず給料くれている方についていた方が得策だからと、よってたかって一緒になってウソをつく方に回るかも知れない。それどころか、今この時点でだって社内であらぬウソで私の方を悪者にする側に回っているのかもしれない。あるいは「あれは助けられなくても仕方がなかった」などと、これまた無責任な話を吹聴しているのかも知れない。もしこの話が大ゴトになり、他のマスコミの取材でも入れば、私の人となりなどまで歪めて面白おかしく作り話をして、積極的に貶めようとするかも知れない。元々、人の個人情報で商売するような会社だ。私の個人情報も会社ぐるみでネットにでも書き込んだりしてね。それでも真実は一つだ。ウソを付く人が多ければ多いほど、私の言い分の方が正しいことは証明しやすくなる。あの手この手で人を貶めるようなやつらがいればいるほど、一般の人には私の言っていることが正しいことが分かるだろう。「あら、ほんとにこんな会社なのね」と納得してもらいやすくなるだろう。裁判になっても、犬山たちがすで掘っている墓穴に気づかせてやるだけだ。正しい裁定を下せる人に下してもらうことに期待したい。
 正直、私は徹底的に闘うことを選ばなかったことを後悔している(何かを冷静に考えて判断できる状態ではなかったのだが)。今からでも、真実をぶちまけたい。どうせメチャメチャにされてしまった人生なら、刺し違えてでも邪なやつらに一矢報いてやらなければ、死んでも死にきれないじゃないか。恐らく、全てが明らかになれば、普通の人はタンコン社の本なんか買わなくなるだろう。そこまで行かなければ、犬山たちには自分たちがしてはいけないことをしたということが分からないのなら仕方がない。自分たちが“病人”にした人間を、しかも本人の訴えを10数年も放置して悪化させるだけさせておいて、追い詰めるだけ追い詰めて、挙げ句に仮病扱いして加療中の人間を脅迫までして追い出し、治療さえ受けられないようにするなどという卑劣で非人道的な行為を行う者の好きにさせておいて良いわけがないそんな卑怯な大人を放置しているから、子供の世界でまでいじめにより自殺が多発したりするのだ。正に子供は大人の鑑なのである。

 世の中には、様々な経緯で理不尽な目に遭う人たちがいる。その意味では、私1人が特別に不幸というのでもないのかも知れない。しかし、だからと言ってタンコン社が私にしたことは到底許されるべきことではないと思う。こういう会社の、こういう経営者を野放しにしている限り、所詮この世は無理が通って道理が引っ込むものだということになってしまう。私のような症状に限らず、日本にはせっかく労働災害保険というものがあるにも関わらず、血がドバドバ出ているとかいうような外傷性の症状、それも明らかに業務中に事故にあったとかでないと、業務環境以外に原因が考えられなくても労災とは認めてもらえず、ただ生活を破壊され、人生を狂わされてしまってもどうすることもできないことになってしまう
 最近、政治家の中には「“負け組”がそのままにならず、再起できる社会を作る」などということを政治理念に掲げている人がいるが、そもそもそれ以前に、こんな理不尽な被害者を出さない、出させないことが重要なんじゃないのか?事故が起こらなければ、救急車は出動しなくて済むのである。そういう観点から活動する政治家もいて欲しいし、そういう法案も出して欲しいものだ。「おべんちゃらでもなんでも言って、権力を先に握ってインチキした者勝ち」の世の中では困るだろう。

 また、「企業が社員のメンタルへルスに気を使うように」という法案も出たそうだが、それでは不十分だ。企業自体が社員を被害者にすることがある以上、被害者の立場に立ってそうした苦情を受け付け、悪質な企業には罰則を与えるくらいの事をしなければ、歯止めにはならない。会社を自分の感情で左右するような経営者がいる限り、被害者もなくならない。“治療よりまず予防”だ。悪質な経営者を野放しにしておいたのでは、被害者はいつまで経ってもなくならない。理不尽に解雇されて、「それなら」と独立起業できるような人ばかりではないのだ。

 何しろ、私がこの経験を通して一番思ったのは、それがいかに理不尽な難癖であれ、社員が会社から一度難癖をつけられてしまったら、事実上それに対抗することは非常に困難なのが今の日本の現状である、ということだ。極端なことを言えば、会社が「業績不振だから人減らしでもしよう」と思えば、いくらでも暴力的な解雇が可能なのである。もちろん、法律の条文だけ見れば、一応のガイドラインがあるようには見えるが、社員側が頑としてそれを主張するには、いろいろな面であまりにも負担が大きすぎる。いかに自分の方が法的にも道義的にも正しいと思っても、実際正しくても、それを主張すること自体が難しい。多勢に無勢。同じ土俵で争うには体力も資金も違う。結果、会社、あるいはその経営者が無理、わがままを通そうとすれば、結局やりたい放題なのである。
 ましてや、会社には労働環境整備の法的義務があるにも関わらず、それを行わなかったからといって、そのせいで病気になったり、症状が悪化したりした従業員がそれを主張し、補償を求め、生活を守ることは非常に難しい。すでに病気になっている時点で体力に不安があるのに、消耗戦になっても頑張り続けるのは容易なことではない。つまり、いわゆる“パワーハラスメント”は事実上したい放題なのだ。
 大人の世界がこうなのだから、子供にばかり「イジメはいけません」なんていったって聞くわけないのである

 個人と法人が戦えば、法人(の名前をカサに着た横暴な人間)が勝つのが当たり前という世の中では、誰も安心して働くことなど出来ない。未曾有の好景気、いわゆる“バブル”を経験し、その後の不景気、“リストラ”時代を経験し、景気や業績が悪いことが被雇用者いじめ正当化の言い訳になることに味をしめた、身勝手な経営者の下では尚更である。
 終身雇用がいいとか、年功序列がどうとかいう話をここでする気はないが、少なくとも会社が社員を裏切ることが正当化されるような社会では、妙な競争意識によって生産性が上がるよりも、かえって会社との距離をおこうとする人間が増え、結果、国としては困ったことになるのではなかろうか。政治家の方には、そんなことも考えていただきたい。
 そうでなければ、いくら子供を産んでくれたらお金をあげますだの何だのと少子化対策などしても、みんな“労働者”として働くことなどバカバカしくなってフリーターばかり増え、大人になって納税してくれるどころか、極端な話、生活保護を受けるような人ばかりになってしまうかも知れない。日本国家の崩壊だ。


 やりきれない思いを少しずつ、目の痛みの合間にこつこつと書いてきた。あまりにも長い時間をかけたので、通して読んだ時にはまとまりがなくなってしまったかも知れない。読みやすい文章にもなっていないだろう。「お前、本当に出版社の元社員かよ?」と笑われるような文章になっているかも知れない。それでも、いよいよ気がおかしくなったり、自ら命を絶ったりしてしまう前に書いておきたかったのだ。でも、校正、推敲までする気力はさすがにない。

 もう1つだけ、今、あるいはこれから“会社”という仕切りの中で働こうとする人たちに言っておきたい。「万が一の時のための“準備”を怠ってはいけない」と。
 私は理不尽な脅しに屈して、自らの意思に反してわけもわからず退社させられてしまったが、今でも、「やはり気をしっかり持って、人生を賭してでも戦うべきだった」と後悔している。辞めてしまえばそれで全て終りなのではない。その後に待っているのは、耐え難い屈辱と後悔の日々なのだ。「辞めたら自分で独立開業でもすりゃいいや」などと簡単に切り替えられる場合ばかりではない。私のように、“労災による故障”を抱えて放り出されたりした場合は尚更だ。それでほくそ笑むのは、無責任経営者だけなのである。戦うためには“準備”と“心構え”が要る。そのことを常に意識しておいた方がいい。自分の身は自分で守る気構えが必要だよ。

 「これだけ真面目にやってるんだから大丈夫」とか「きちんと実績を出しているのだから安心だ」とか、ましてや「僕は会社に必要とされているはず」なんてのは、“妄想”だ。そんなものは、自分勝手な経営者や、人を陥れることで自分の居場所を確保しようとする輩に遭えば、何の意味もないのだ。



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